7.24/2001
〜代ゼミ講師西岡氏に異議あり〜
代ゼミ数学講師・西岡康夫氏の問題集を読んで批判しようと色々書いていたのだが、批判に踏み込む前の段階の文章が随分長くなってしまったので、まずその部分だけ今回公開することにした。
つまり、今回の文章は、批判の一歩手前の「異議あり」という感じのつもりでボクは書いている。(ボクが批判するときはもっと強い調子で書くのだ)
この項の概略を挙げておきます。
1.西岡氏による「はさみうちの原理」の不思議な証明(情報求む!)
では、早速行ってみよう。(^^)
net上での友人であるC君(受験生)が、代ゼミのサテライン講座で西岡氏の授業を取ったという。なかなか面白いらしい。彼が授業で印象に残ったことを教えてくれた。
西岡「どんな命題Pについても、Pまたは¬P(“Pの否定”ということ)のいずれかが成立する。これを排中律という」
これは正しい。普通の数学ではこのことは成り立つとしている。
命題Pが成り立つことを証明するときに、「¬Pと仮定すると矛盾が生じる。したがって、Pが成り立つ」と証明することがありますね。背理法という証明方法です。
背理法は「¬Pが成り立たなければPが成り立つ」と言うことですから、背理法が排中律と同じ事を意味しているのは明かですね。
つまり、わざわざ受験生に馴染みがない「排中律」なんてかっこつけて言わなくても、みんながよく知っている「背理法という証明方法があります」と言えば済むのだ。(この辺は趣味の問題だけどね。)
ただ、排中律の話を詳しく始めると微妙な問題があって、「Pまたは¬Pのいずれかが成立する」という言い方と「『Pまたは¬P』が成立する」では場合によっては意味が違ってくるので、生半可に受験生に話をするのは誤解を生む可能性があるので危険だと思う(ボクは多値論理の世界を念頭に置いている)。 そういう危険を犯してまでも排中律を教える必要は無いとボクは思う。
西岡氏の次の言葉が意味不明で面白い。
西岡「排中律は数学の憲法です」
憲法って事は、2/3以上の賛成があれば変更できるのかな?(笑) 排中律ってそんな程度のことなの? 排中律の成り立たない世界ってのは(実はそういう特殊な世界もある)、論証がすごく不自由なんだよ。
普通の数学の基本になる公理は色々あるけど、排中律が特に大切というわけではない。
受験生が大学に入って本格的な数学を学んだときに、排中律がことさら強調されるようなことはまずあり得ない。あるとすれば、「排中律を認めない世界」についての解説を聞くときだろうが、殆どの学生はそんなもの聞く機会はないだろう。
それなのに何故西岡氏は排中律を憲法にたとえてまで強調するのか? それは後の“証明”の前振りなんだよね。
さらに西岡氏の言葉を引用しよう。
西岡「『はさみうちの原理』という呼び方は、予備校業界特有の間違った呼び方だ。証明できることなのだから、『はさみうちの定理』と呼ぶべきだ」
ここで話題になっている「はさみうちの原理」とは次のようなものだ。
|
【はさみうちの原理】 |
と
にはさまれて
が収束していく感じが「はさみうち」と呼ばれる理由であろう。
西岡氏が「予備校業界特有の呼び方」と言ってるのはたぶんその通りである。(☆) 「はさみうちの原理」という言葉は正式な用語ではないらしい。日本数学会が編集した「数学辞典」(岩波書店)にはその言葉は載ってないからだ。ただし、「はさみうちの定理」って言葉も載ってない。わざわざ名前を付けるほどの定理でもないからだろう。
☆7.27/2001追記。n/aさんより、杉浦光夫『解析入門I』(東京大学出版会,1980年)に「命題2.7(はさみうちの原理)」と書かれていると教えていただきました。ありがとうございます。
このテキストはものすごく有名なものですから、「はさみうちの原理」は決して予備校業界に特有の呼び方ではないのですね。西岡氏には誰か(代ゼミ系の掲示板からバンバン見に来てるようだから)教えてやってくれよ。
C君によると西岡氏はこの「はさみうちの原理」(西岡流なら“定理“)を、排中律を用いて証明したらしい。上でも書いたように排中律というのは背理法と同じ事だから、実質的には背理法を用いて証明したのだろう。
これは不思議だ。(何故不思議なのかは後述)
その証明を直接聞いていないボクがその証明の具体的な中身について推測を交えて書くのはやめよう。でも、排中律or背理法を用いると、どうしても珍妙な証明しか書けない。
だから、そのノートを詳しくとっている人がいたら是非詳しく教えていただきたい(こちらまで)。もしかしたらボクの想像も出来ない鮮やかな手法が展開されているのかも知れない。それならそれでボクにはありがたいことだ。勉強になるから。(☆☆教えてもらったぞ)
しかし、今の時点ではボクには排中律や背理法を用いて「はさみうちの原理」を証明するのは不思議で仕方ない。何故不思議なのか以下で述べよう。
まずは、「はさみうちの原理」を「原理」と呼ぶ理由をボクなりの考えで述べたい。(非公式な用語だから公式な理由はないはずだ)
もう一度「はさみうちの原理」を見てみよう。
|
【はさみうちの原理】 |
これの意味するところは、「
も
もαに限りなく近づくなら、
と
の間にある
もαに限りなく近づく」というlことなのでものすごくアタリマエのことである。(次図参照)
<はさみうちの原理のイメージ>
高校の数学では数列がαという値に収束すること(このαを極限値といいますね)を「
とは、nを大きくしていくとき
がαに限りなく近づくこと」と定義している。これは直感的な定義であって(『限りなく近づく』って何?)厳密には定義していないので、「
がαに限りなく近づく」を厳密には証明のしようがないのだ。上のような図を思い描いたらそれでお終いなのだ。
これを厳密に証明しようとすれば、当然、数列の収束の厳密な定義が必要になってくる。しかし、そういう厳密な定義は高校では扱わないのである。そういう厳密な定義は省いてもまずは微分・積分などの高度な計算が出来るようにしようと言うのが高校の数3の目的なのだ。厳密な理論は大学で学ぶのである。
数学では証明無しに認める事実を「公理」と言い、そこから証明される事を「定理」という。「はさみうちの原理」は普通は公理とはみなされない。数列の収束をキチンと定義すればそこから証明されるからだ。この意味で、西岡氏が「『はさみうちの原理』ではなく『はさみうちの定理』だ」と主張するのは正しい。
しかし、その証明を生徒に見せられない以上は、定理と呼ぶのははばかられる。だから、「証明はしないけど正しいことだよ」というニュアンスで「原理」と呼んでいる(『公理』でも『定理』でもない)のだとボクは思う。
さて、西岡氏が「はさみうちの原理」を証明するのに排中律を使ったというのが何故不思議なのか、その理由の一つ目を挙げよう。
排中律を用いると言うことは背理法を用いると言うことですが、背理法を用いて証明すべきなのはどういう場合だと思いますか?
論証が短くなったり簡明になる場合にこそ背理法は用いるべきなのですね。背理法を用いずに普通に証明する方がわかりやすいという場合に背理法を用いるのは、センスが悪いです。
このことを踏まえて、もう一度、「はさみうちの原理」のイメージを見てみよう。
<はさみうちの原理のイメージ(再掲)>
「
も
もαに限りなく近づくなら、
と
の間にある
もαに限りなく近づく」というのは、アタリマエに思えるでしょう。
「3つの数列{
},{
},{
}について常に
が成り立ち、しかも、
」という「はさみうちの原理」の前提を図示しようとしたら、誰でもこういう図を描くでしょう。だから、この前提から
が導かれるのがアタリマエに見えるのです。
を排中律を用いて導こうというなら、実際は背理法になるので、まず
と仮定するはずです。(ここから何か不合理なことを導いて『よって、〜が成り立つ』というのが背理法)
ところが
となるような{
}のイメージは様々ですね。
は収束するがその極限がαより大きいという場合もあれば小さいという場合もある。
の場合(収束してない!)もあれば
という場合もあるし、
が収束して無くて無限大に発散でも負の無限大に発散でもないというタイプ(振動)に至っては、もう図の描きようがないぐらいに{
}の動きは千差万別になってしまう。
ですから、排中律=背理法を用いた証明をすると、この場合は却ってわかりにくくなるはずです。つまり、排中律を使った証明はセンスが悪いし、もしそれでわかりやすくなっているというなら、何処かごまかしている可能性大です。(注。誤魔化してました。☆☆を見よ。)
「はさみうちの原理を排中律で証明」というのがボクには不思議なのは、以上のことが理由の一つ目です。
「はさみうちの原理を排中律で証明」というのが不思議だと言うもう一つの理由を書こう。
1.4でも繰り返し書いたが、「はさみうちの原理」を証明するには数列の収束の厳密な定義が必要だ。そして、その定義を元にすれば、排中律や背理法は使わずに(排中律は背理法と実質的には同じ事)容易に証明可能なのだ。それなのに排中律を使って証明するのはおかしいよねぇ。
まず数列の収束をキチンと定義しよう。
|
【数列の収束の定義】 数列 (注。εは『イプシロン』と言うギリシャ文字。“いくらでも0に近づけられる数”というニュアンスで使うことが多い。) |
ほら、なんだかわかんないでしょ。(爆) だからこんなことは高校では教えないのだよ。(^^ゞ
のイメージは、「どんな正のεに対しても、数列{
}のある番号(これがN(ε))以降の項
は、αとの誤差がεより小さい」という事なのだ。次の図を見て欲しい。
<
のイメージ>
この図のεはどんな正の数でも良いので、もちろんεをどんなに0に近づけても良く、
が限りなくαに近づいていく様子(つまり
ってこと!)を実に的確に表現しているのです。
この定義をもとに、いよいよ、「はさみうちの原理」を証明してみよう。
|
【はさみうちの原理の証明】 任意の正の数εに対し、上記の「数列の収束の定義」から、番号N(ε)が定められて、n>N(ε) となるとき| n>N(ε) のとき、 α−ε< ∴ | ∴ 注。丁寧に書けば、「n>L(ε) となるとき| |
ほらね、数列の収束をキチンと定義しておけば排中律など使わずにこの程度で「はさみうちの原理」は証明できるのだ。だから、「排中律で証明」というのは、不思議なのだ。
1.7終わりに
というわけで、今回の話を前振りにして次回はいよいよ西岡氏の問題集を批判しようと思う。もちろん、意味ありげなタイトルの謎解きも次回なのだ。乞うご期待。(^^)
☆☆7.28/2001追記。Cさんから、「はさみうちの原理」の西岡氏の証明を教えていただきました。(若干長谷川が表現を直しています)
------引用開始------
西岡 「
(n=1,2,3,…)が成り立ち、
とする。
は、α以上でα以下。
α以上でα以下のもので、α以外のものは存在しません。
なぜなら排中律に反するからですよ。(よって
=α)」
ものの15秒です。一字一句あってるとは云いませんが、ほぼ合ってると思います。
-----引用終わり------
全然、証明になってませんね。(-_-メ;) 
が収束することを全く論証していないぞ。
その論証こそが「はさみうちの原理」の証明の肝心なことです。それをまったくしていません。大学の教養部の試験でこんな証明を書いたら、確実に零点です。
ボクが言うことが信用できない人は、是非、この証明を大学の数学の教官に見せて正しい証明かどうか聞いて見てください。「はさみうちの原理」の証明がこれで良いという教官は、存在しないでしょう。
さらに、ここで「排中律」を使っていますが、この使い方は全くのナンセンスです。「
が収束すること」を認めれば(その証明は西岡氏は全くしていないけどね)、
においてn→∞とすれば、α≦
が直ちにわかり、同様に
でn→∞として
≦α がわかります。「α≦
かつ 
≦α 」から
=α が導かれるのは、排中律ではなく、不等式の性質です。「A≦BかつB≦A であれば、A=B」 と言ってるだけでしょ。こんなことを言うのに排中律なんて持ち出すなよ。■■っ。(表現の一部を自主規制しました。(笑))
8.13/2003追記。上の追記を久しぶりに読み直してみたら「排中律」の手偏を人偏にしている箇所を一つ発見したので直した。(^^ゞ